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時々思ったことを書いています。

宛先のない手紙

本気で好きになって、傷つけあって別れて、もう話をしない人がいる。

今でもふとした瞬間に、彼は元気だろうかと思う。

毎日働いていて、恐らく遊ぶ相手や恋人には困っていないのだろう。

自分と向き合い続けることが難しいという言葉を残して、何かを作るのを止めてしまった。

その真意は測りかねるが、とにかく止めてしまったのだ。

 

観た映画に関して、議論するのが楽しかった。

別に何も形にはしていなかった我々だったが、夜の帰り道、ちょっとした夢を語ったこともあった。

自分を支えてくれるひとがいれば頑張れると、彼は言った。

お互いの腹を探りあって、「恋人」として関係性を求めあった時期もあった。

子供じみた自己愛でお互いを傷つけあって喧嘩別れすることになったのだが。

本当はもう一度話したいが、もう思い出の中にとどめておくのが一番美しいのかもしれない。

あの日から比べれば少しばかり大人になったとはいえ、また相手を「こらしめてやりたい、傷を残してやりたい、影響を残したい」という気持ちがぶり返してしまうことだろう。

 

「支えてくれるひとがいれば、頑張れる」という言葉は、今になってブーメランのように心に響いてくる。

別に家族に理解してもらいたいとは、もう到底思えない。

ただ、血のつながっていない、偶然出会った恋人や友人には恵まれている。

心の底から今の自分が生きていられるのは彼女たち/彼らたちのお陰だと思う。

恐らく自分では気が付いていない/気が付きたくないところに、まだ癒えていない傷があるらしく、

ふとした拍子に引きずり込まれてしまいそうになる。

そんな時、言葉を一言一言真摯に受け止めてくれる友人や、堂々巡りの思考を受け流してくれる恋人のお陰で生活ができている。

 

私の毎日みている景色は美しいです。

時々灰色に塗りつぶされてしまうこともありますが、おおむね元気です。

今は秋で、虫の声と雨の音に包まれています。

あなたの心に表現者としてのエゴが残っていて、それを燃やそうとする日が来るのなら、そっと応援します。

女たちの夜


夜な夜な繰り返させる、帰宅後のガールズトーク
本当にくだらないおしゃべりの集積。

 

ただしどこか祈りに似ている。

 

今日思ったこと、とりとめもないこと、好きな人の話、だれがかっこいいとか、とりあえず飲もうとか。
浮かんでは消えるおしゃべりを、私たちは夜中に繰り返す。

 

その日の疲れを癒すため、明日が今日より良い日であるように、言葉を重ねていく。
他人に対する思いやりの言葉だったり、ちょっとした悲劇を喜劇に変えてしまったり。

 

きっと傍からすれば、ただの煩い小鳥たちがぴいちく鳴いているようにみえると思う。しかし私たちにとってそれは大切な儀式なのだ。

現実を認識し、それを真正面から乗り越えるのではなく、笑ってやり過ごす方法を見つけるための。

 

そうやって私たちは今日も生きていく。

ドキュメンタリー映画が好きな理由

メモとして、まったくの主観を今から書くだけ。

 

どうしてドキュメンタリー映画が好きかということ。

ドキュメンタリー番組ではなく、ドキュメンタリー映画

もちろん、番組には番組の良さがあって、大好きだ。

いまから書くのは映画に関すること。

 

私は様々な人間関係の中を生きていている。

ドキュメンタリー映画に登場する人物も、その人物の人間関係の中を生きている。

その人たちがふと発する言葉、生きる姿、感情が、私が大切に思っている人を想起させるとき、

人間の哀しさや愛おしさに触れるとき、

透明の涙が出る。

大切な人たちは、毎日会えなくて、遠くに暮らしている。

その大切な人たちは、日々年をとり、突然あえなくなってしまうことだってある。

戻らない時間と、変わりつづける場所と、私自身を温めてくれている記憶を思う。

普段生活している分には思い出さないのに。

映画の中でその時その場所で生きていた人を見ていると、ふと思い出すのだ。

そして映画を観ながら、自分の記憶と映画の場面が脳内で行ったり来たりしてしまう。

翻って今自分が生きていることの奇跡を思う。

 

たぶんそうなったら、その映画はもう客観的に構造的に鑑賞できていない。

 

街を歩く、映画を観る、話す

その街にはその街の、顔がある。

 

下北沢トリウッドに映画を観にいった。早くに到着したから、街を散策する時間があった。

休みの日の下北沢は若い人と観光客でにぎわっていて、ガールズバーのお姉さんや強面のお兄さんが客引きをしていた。

映画館に向かう途中、商店街を下っていくと、ぽつぽつと古着屋が軒を連ねる。

下北沢の表層しかしらない私の印象は、こんなものだ。

 

別に買い物をする気はないけれど、きらきらした細かいアクセサリーのショップを眺めていた。

「お姉さんそのワンピースどこで買ったんですかー!?かわいいですね~」

「ああ、すみません、古着です」

なんだか竹を割ったように笑う接客をする方で、アパレルの人にしてはめずらしいなと思った。

「この後どこいくんですかー」

「あ、そこの映画館です」

 

 

映画を一人で観にいくときは、たいてい孤独だ。誰とも言葉を交わさない時だってある。

そんなものだと思っていたのだけれど、ここ最近、映画は誰かと観たり、観たあとに「おもしろかったね」とか「よかったね」とか、単純な言葉でもいいから何かを共有したいのだ。

そして「よかったね」と伝えて、その誰かがまた映画館に足を運んでくれれば、なおさら嬉しい。

誰かが「おもしろかった」という映画は、予告だけでもいいから観てみたい。

 

 

どうしたら一人でも多くの人に映画を観てもらえるのか。

色んな映画を観るたびに、そんなことを思っている。

ドキュメンタリーは面白いものなのに、どうしてドキュメンタリーというだけで鑑賞予定リストから除外されてしまう場合があるのか。

 

 

監督が舞台挨拶で、

「小さい映画なので、一人一人の声で広まっていくことがのぞましいです」

と、休日のナイトショーの終わりで語ってくれた。

小さな声を、目の前の相手一人一人に届け続けること。

ロビーで声をかけさせてもらった際、チラシを何枚かいただいた。

 

 

もう大分遅い時間帯だったけれど、上映前にウィンドウショッピングしていたお店がまだやっていた。

お姉さんがいたので、先ほどいただいたチラシを一枚渡して帰宅した。

 

 

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水本博之監督作品『きおく きろく いま』『いぬごやのぼうけん』を観賞。

映画にはうつらない、長崎県大村市の方々が楽しそうに絵を描く様子だとか、監督が目にしたであろう海の荒々しさを想像していました。

忠犬ハチ公的なエートスからは程遠かった”いぬ”や、いじわるそうな顔をする主人公など、現実や人間の可笑しさや哀しさに二ヤリとしたり。

アニメーションとドキュメンタリーの世界を行き来するからこそ生まれる、稀有な表現なのだと思いました。

https://www.facebook.com/kiokutoinugoya/

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服/バングラデシュ/労働

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同居人は衣装作家だ。

フリーランスとして舞台の衣装を作っている。息を吸うように手を動かし、時々お茶を淹れて休憩を挟み、再び作業場へ戻る。私はいつもコタツに入りパソコンで作業。彼女は音楽が好きで口笛や鼻歌を交えながら手を動かし続けるのだ。

(人間目指している方向が違えば、これ程までに生活が異なるものかとしみじみしている。)

 

上京してから一心に服を作り続けてきた彼女の仕事、仕事部屋、仕事道具をこっそり尊敬の目で見つめていることをここで明らかにしておく。


私たちは5人くらいで一軒家に住んでいる。コタツのあるリビングで皆の時間が合えば、他愛もない話をして毎日を過ごす。美味しい食べ物の話だとか、兄弟は何人だとか、好きな人はどんな人なのかとか、仕事はどうだとか、色々。

 

そういう類の話をしていた時だったと思う。私が衣装作家の彼女に「バングラデシュの縫製工場で取材してみたいんだよね」と何気なく話を振った。すると彼女の眼光が鋭く光って、“ダッカ近郊ビル崩落事故”の写真の展示を見に行った話を教えてくれた。彼女はその写真を見て、涙が止まらなくなったと言い放つ。

 

私は正直、彼女がなぜそこまで心を動かされたのか分からなかった。でもその違和感が喉につっかえて、バングラデシュの縫製労働に関する記事を読み漁った。

 

ここでは断片的な情報を並べることしかできないが、女性行員たちは生活や家族の為に、月収三千円から四千円程度の給料で過酷な労働を強いられている。なんといっても外資企業がバングラデシュに工場を建設するメリットが、安価で豊富な労働力なのだから。男性の監督者から性的な暴言、暴力を受けた事例も存在する。バングラデシュの猛暑、機械から発される熱気の中、休憩もろくにとることは出来ない。

 

先進国の消費者はそういった暴力とは無自覚に、“安く・手軽で・お洒落な”服を求めつづけた。顔の見えない欲望が積もり積もった結果だろう。2013年4月24日8時45分にラナ・プラザビルが崩壊した。もう4年も前の事件だから私たちは「あぁ、あのビルが崩れた事件ね」と、忘却している。1000人以上が下敷きになって命を絶ったのにも関わらず。生活のためとはいえ、“安く・手軽で・お洒落な”服を購入した私たちにこそ罪があるのに。

 

誰かを想いながら衣装を作る彼女と、誰が着るかも分からない服を縫い続けているバングラデシュの女性たちは、服を作るという本質を通じて同じ人物だ。仕事中にビルが崩壊し生き埋めになるということは、彼女が死ぬことでもあると感じられた瞬間、途端に胸が痛くなった。

 

店頭に並ぶ"Made in Bangladesh"の服は、まっさらな顔をして、きれいに無個性に陳列されているだろう。しかしそれらは機械で作られたのではない。血の通った女性が明日を生きるために作った服なのだ。購入して1シーズンさえ着ることができれば捨てるのも惜しくないその服は、彼女たちの肉体的・精神的犠牲の上に成り立っている。

 

バングラデシュの友達と、ダリ展に行った。

半年ぶりにお互いのフィーリングと予定があって、先日、東京の大学の修士課程で研究しているバングラデシュ人の友達と会った。

共通の知人からバングラデシュの土産を預かってきていて、それを渡そうとしていたが、渡しそびれて半年以上経ってしまっていた。

 

はじめて会った時は去年の冬で、板橋にあるバングラデシュ料理屋さんに誘ったのだけれど、そのお店が店じまいしていたみたいで結局普通のインド料理を食べて気まずかった。

私も、彼女もどちらかというと話を聞くタイプだったし、当時のベンガル語は片言だったに違いないから、なんだかもう、まとめて、あぁごめん…不甲斐ない、という感じだった。

 

今回はリサーチを怠らず、錦糸町にある噂のバングラデシュ料理屋「アジアカレーハウス」に行った。

きっと地元の料理が食べられなくて寂しがっているハズ…!と思って選んだのだが、

彼女あまり食べることに執着がなさそうなタイプだった。

私は「おおお…!旅行中に食べたやつっぽい!」と思いながら、残す彼女にかまわず完食した。

 

食べ終わった後、

私「どこいこうね~浅草は行った~?」

彼女「行った~」

私「スカイツリーはみた~?」

彼女「ここから見えるね~」

私「アハハ」

 

という感じだったから、どこに行こうかな?と思っていたけれど、

ふとした拍子に彼女が美術館の話をしだして、

 

彼女「研究会でパリに行ったけど、休みの日にルーブル美術館で一日中鑑賞してた」

私「いいなあ!絵を見るのが好きなんだね」

彼女「うん。今、ダリ展やってるみたいだね」

私「え、行きたい。行こう!」

彼女「やったー!」

的なノリで、美術館に行くことにした。

 

美術館を一緒に見て回るというのは、あまり言葉を必要としないのだなと思った。

その日は人が多くて、はぐれないように気を付けながら、お互いにペースを合わせて鑑賞した。

一人で行けば、通り過ぎてしまうような絵のニュアンスも、人ごみの中、一枚一枚ゆっくりと観賞することで、細部まで楽しむことが出来た。

疲れたら一緒にベンチに座って、また立ち上がった。

鑑賞し終えると、「よかったね」という言葉だけ交わして、外に出る。

秋晴れですがすがしい天気の中、美術館の回りをちょっと散歩してから帰った。

 

言葉を多く交わさないでも、一緒に絵を見たという体験、そして一緒に過ごした時間というのは、こんなにも満ち足りたものだったのだと気が付けた。

 

 

「絵を見に行くときは『ションギ』(仲間)が欲しいよね」

という彼女の一言が頭に残っている。

また行けたらいいな。

マフラーにした「赤い手ぬぐい」の質感が分からない

かぐや姫の『神田川』を力技でベンガル語と英語に翻訳してみたお話。

 

ベンガル人に、日本語の歌を聞いてもらったらどんな反応するかな~というのが目的です。

好奇心と翻訳へのアマチュア的情熱から、日本語の特徴のあるポピュラーソングを翻訳している。

ベンガル人は芸術好きな人が多いからか知らないが、どんな訳でも見せれば褒めちぎってくれる。ありがとう。

 

翻訳しながら歌詞と向き合っていると、本当に次から次へと疑問が沸き上がる。

これ、いつの歌?なるほど、1973年か。

作詞された喜田条忠氏の話によると、学生闘争の時代なのだな。ふむふむ…

そして驚愕したのは、作詞家は男で、作詞家の心情を書いた歌であるらしいということ。

それまで鼻歌交じりで曲を聞いていた私は、完全に、あぁ彼氏が風呂から出てこなくて寒くてイライラしているんだなと思っていた。

 

今は風呂から出てくるのを待って、石鹸をカタカタ鳴らすことはもうないんだろうな。

暖房の利いた休憩所があるもの。

洗い髪もドライヤーすればいいもんな。

横丁って、具体的にイメージ出来ないなあ。

 

そして一番疑問に思ったのが、

70年代の赤い手ぬぐいって、どんな質感だったんだろうかってことです。

ぱさぱさしてたのか?赤ってどんな発色の赤なの?

マフラーとしての防寒機能はあったのか?

ついでにマフラーをどのように巻いていたのかも不鮮明である。

二人で巻いて暖を取っていた可能性もある。

しかしそのような場合、手ぬぐいの長さ的に無理があるか・・・

 

「赤いてぬぐい」という、70年代の母語のレアリアが分からない。