note

生活と、思考と、仕事と、感情の記録です。

桜をiPhoneで美しく撮るには?

桜がとても美しく咲き誇る季節になりましたね。

この時期はカメラを持ってお出かけしたくなのですが、やっぱり色々とドタバタする季節でもあります。

一眼を持って散歩できない…なんてこともしばしばです。

わたしはそういう時、iPhoneで写真を撮ります。

自分なりに試行錯誤して撮影するのですが、その際のコツ?みたいなものをまとめてみました。

 

①自然光を生かしながら、桜を接写する


iPhoneカメラは接写が映えると個人的に思います。

ですので桜にカメラを近づけて撮影します。

意識としては桜の木全体を撮るのではなく、桜の花を撮るという感じでしょうか。

花にピントをあわせるのがコツです。

そして晴天の青空の桜はカメラにも映えます。

自然光、桜との接写を組み合わせれば、桜のピンクがより表現できるかと思います。

f:id:mikarin43:20180328084657j:plain

 

②桜+別の主題で表現する

 

桜だけでなく、その背景に別の主題を入れてみるとお互いが映えます。

写真は桜+横浜です。

どこにいたかという記憶がはっきり思い出せる写真になるのでオススメです。

f:id:mikarin43:20180328084717j:plain

 

③夜桜は光源を生かしつつ、ノイズを気にしない


夜桜も美しいですよね。酒でも飲みながら夜風にあたって花見をするが一番幸せです。

そういう思い出とともに、夜桜も写真として残しておきたいですよね。

光源をまずは探すことでしょうか。

公園等だったら、街灯が立っていると思います。その光を利用しながら撮影します。

また露出も上げることになるかと思いますが、その際ノイズが入ります。

でも気にしないことです。ノイズを生かした味のある写真と思うことが大事です。

f:id:mikarin43:20180328084701j:plain

 

 

散り始めた桜や、葉桜も美しいですよね。

毎年今年は誰と、どこで、どんな桜を見られるかなとわくわくするこの季節、私も沢山写真を残しておきたいです。

 

 

3/21(水)プレ府中文化祭にて 写真のワークショップを行います

大学関係の先輩にご紹介いただき、府中市の「Pre府中文化祭」というイベントで写真のワークショップの講師を勤めることになりました。

 

実際問題、私はプロとして仕事をしている訳ではなくって、自分なりのペースで写真と向き合っています。そんな私が今伝えられることは何かを今一生懸命考えています。

 

写真は独学で学んでいる最中です。日常のちょっとした喜びを留めたり、誰かの輝いている姿を写すことでその人に喜んでもらったり、写真を撮っていて救われたなあと思うことが多くあります。

 

一方で良く撮れたと思っても、しばらくすると更に良いものが撮りたくなって物足りなくなるというジレンマもあります。

 

そして少しでも準備を怠ったり、撮影時に気持ちのゆるみが生じてしまうと、それは全部写真に反映されてしまいます。写真はまさに心の鏡です。だからこそ、カメラだけでなく、自分の心も、美しく整えておきたいと最近思うようになりました。日々の行いや心がけも、良い写真につながるのかと思っています。

 

そんな風に、日常の中に写真があること、自分のために、他人のために写真を撮ることはどういうことなのか、ワークショップを通じて伝えられたらと思っております。

 

もちろん、技術的な話も交えながら!

 

f:id:mikarin43:20180301215921j:plain

www.fes-info.com

宛先のない手紙

本気で好きになって、傷つけあって別れて、もう話をしない人がいる。

今でもふとした瞬間に、彼は元気だろうかと思う。

毎日働いていて、恐らく遊ぶ相手や恋人には困っていないのだろう。

自分と向き合い続けることが難しいという言葉を残して、何かを作るのを止めてしまった。

その真意は測りかねるが、とにかく止めてしまったのだ。

 

観た映画に関して、議論するのが楽しかった。

別に何も形にはしていなかった我々だったが、夜の帰り道、ちょっとした夢を語ったこともあった。

自分を支えてくれるひとがいれば頑張れると、彼は言った。

お互いの腹を探りあって、「恋人」として関係性を求めあった時期もあった。

子供じみた自己愛でお互いを傷つけあって喧嘩別れすることになったのだが。

本当はもう一度話したいが、もう思い出の中にとどめておくのが一番美しいのかもしれない。

あの日から比べれば少しばかり大人になったとはいえ、また相手を「こらしめてやりたい、傷を残してやりたい、影響を残したい」という気持ちがぶり返してしまうことだろう。

 

「支えてくれるひとがいれば、頑張れる」という言葉は、今になってブーメランのように心に響いてくる。

別に家族に理解してもらいたいとは、もう到底思えない。

ただ、血のつながっていない、偶然出会った恋人や友人には恵まれている。

心の底から今の自分が生きていられるのは彼女たち/彼らたちのお陰だと思う。

恐らく自分では気が付いていない/気が付きたくないところに、まだ癒えていない傷があるらしく、

ふとした拍子に引きずり込まれてしまいそうになる。

そんな時、言葉を一言一言真摯に受け止めてくれる友人や、堂々巡りの思考を受け流してくれる恋人のお陰で生活ができている。

 

私の毎日みている景色は美しいです。

時々灰色に塗りつぶされてしまうこともありますが、おおむね元気です。

今は秋で、虫の声と雨の音に包まれています。

あなたの心に表現者としてのエゴが残っていて、それを燃やそうとする日が来るのなら、そっと応援します。

女たちの夜


夜な夜な繰り返させる、帰宅後のガールズトーク
本当にくだらないおしゃべりの集積。

 

ただしどこか祈りに似ている。

 

今日思ったこと、とりとめもないこと、好きな人の話、だれがかっこいいとか、とりあえず飲もうとか。
浮かんでは消えるおしゃべりを、私たちは夜中に繰り返す。

 

その日の疲れを癒すため、明日が今日より良い日であるように、言葉を重ねていく。
他人に対する思いやりの言葉だったり、ちょっとした悲劇を喜劇に変えてしまったり。

 

きっと傍からすれば、ただの煩い小鳥たちがぴいちく鳴いているようにみえると思う。しかし私たちにとってそれは大切な儀式なのだ。

現実を認識し、それを真正面から乗り越えるのではなく、笑ってやり過ごす方法を見つけるための。

 

そうやって私たちは今日も生きていく。

ドキュメンタリー映画が好きな理由

メモとして、まったくの主観を今から書くだけ。

 

どうしてドキュメンタリー映画が好きかということ。

ドキュメンタリー番組ではなく、ドキュメンタリー映画

もちろん、番組には番組の良さがあって、大好きだ。

いまから書くのは映画に関すること。

 

私は様々な人間関係の中を生きていている。

ドキュメンタリー映画に登場する人物も、その人物の人間関係の中を生きている。

その人たちがふと発する言葉、生きる姿、感情が、私が大切に思っている人を想起させるとき、

人間の哀しさや愛おしさに触れるとき、

透明の涙が出る。

大切な人たちは、毎日会えなくて、遠くに暮らしている。

その大切な人たちは、日々年をとり、突然あえなくなってしまうことだってある。

戻らない時間と、変わりつづける場所と、私自身を温めてくれている記憶を思う。

普段生活している分には思い出さないのに。

映画の中でその時その場所で生きていた人を見ていると、ふと思い出すのだ。

そして映画を観ながら、自分の記憶と映画の場面が脳内で行ったり来たりしてしまう。

翻って今自分が生きていることの奇跡を思う。

 

たぶんそうなったら、その映画はもう客観的に構造的に鑑賞できていない。

 

街を歩く、映画を観る、話す

その街にはその街の、顔がある。

 

下北沢トリウッドに映画を観にいった。早くに到着したから、街を散策する時間があった。

休みの日の下北沢は若い人と観光客でにぎわっていて、ガールズバーのお姉さんや強面のお兄さんが客引きをしていた。

映画館に向かう途中、商店街を下っていくと、ぽつぽつと古着屋が軒を連ねる。

下北沢の表層しかしらない私の印象は、こんなものだ。

 

別に買い物をする気はないけれど、きらきらした細かいアクセサリーのショップを眺めていた。

「お姉さんそのワンピースどこで買ったんですかー!?かわいいですね~」

「ああ、すみません、古着です」

なんだか竹を割ったように笑う接客をする方で、アパレルの人にしてはめずらしいなと思った。

「この後どこいくんですかー」

「あ、そこの映画館です」

 

 

映画を一人で観にいくときは、たいてい孤独だ。誰とも言葉を交わさない時だってある。

そんなものだと思っていたのだけれど、ここ最近、映画は誰かと観たり、観たあとに「おもしろかったね」とか「よかったね」とか、単純な言葉でもいいから何かを共有したいのだ。

そして「よかったね」と伝えて、その誰かがまた映画館に足を運んでくれれば、なおさら嬉しい。

誰かが「おもしろかった」という映画は、予告だけでもいいから観てみたい。

 

 

どうしたら一人でも多くの人に映画を観てもらえるのか。

色んな映画を観るたびに、そんなことを思っている。

ドキュメンタリーは面白いものなのに、どうしてドキュメンタリーというだけで鑑賞予定リストから除外されてしまう場合があるのか。

 

 

監督が舞台挨拶で、

「小さい映画なので、一人一人の声で広まっていくことがのぞましいです」

と、休日のナイトショーの終わりで語ってくれた。

小さな声を、目の前の相手一人一人に届け続けること。

ロビーで声をかけさせてもらった際、チラシを何枚かいただいた。

 

 

もう大分遅い時間帯だったけれど、上映前にウィンドウショッピングしていたお店がまだやっていた。

お姉さんがいたので、先ほどいただいたチラシを一枚渡して帰宅した。

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

水本博之監督作品『きおく きろく いま』『いぬごやのぼうけん』を観賞。

映画にはうつらない、長崎県大村市の方々が楽しそうに絵を描く様子だとか、監督が目にしたであろう海の荒々しさを想像していました。

忠犬ハチ公的なエートスからは程遠かった”いぬ”や、いじわるそうな顔をする主人公など、現実や人間の可笑しさや哀しさに二ヤリとしたり。

アニメーションとドキュメンタリーの世界を行き来するからこそ生まれる、稀有な表現なのだと思いました。

https://www.facebook.com/kiokutoinugoya/

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

服/バングラデシュ/労働

f:id:mikarin43:20170401001009j:image

同居人は衣装作家だ。

フリーランスとして舞台の衣装を作っている。息を吸うように手を動かし、時々お茶を淹れて休憩を挟み、再び作業場へ戻る。私はいつもコタツに入りパソコンで作業。彼女は音楽が好きで口笛や鼻歌を交えながら手を動かし続けるのだ。

(人間目指している方向が違えば、これ程までに生活が異なるものかとしみじみしている。)

 

上京してから一心に服を作り続けてきた彼女の仕事、仕事部屋、仕事道具をこっそり尊敬の目で見つめていることをここで明らかにしておく。


私たちは5人くらいで一軒家に住んでいる。コタツのあるリビングで皆の時間が合えば、他愛もない話をして毎日を過ごす。美味しい食べ物の話だとか、兄弟は何人だとか、好きな人はどんな人なのかとか、仕事はどうだとか、色々。

 

そういう類の話をしていた時だったと思う。私が衣装作家の彼女に「バングラデシュの縫製工場で取材してみたいんだよね」と何気なく話を振った。すると彼女の眼光が鋭く光って、“ダッカ近郊ビル崩落事故”の写真の展示を見に行った話を教えてくれた。彼女はその写真を見て、涙が止まらなくなったと言い放つ。

 

私は正直、彼女がなぜそこまで心を動かされたのか分からなかった。でもその違和感が喉につっかえて、バングラデシュの縫製労働に関する記事を読み漁った。

 

ここでは断片的な情報を並べることしかできないが、女性行員たちは生活や家族の為に、月収三千円から四千円程度の給料で過酷な労働を強いられている。なんといっても外資企業がバングラデシュに工場を建設するメリットが、安価で豊富な労働力なのだから。男性の監督者から性的な暴言、暴力を受けた事例も存在する。バングラデシュの猛暑、機械から発される熱気の中、休憩もろくにとることは出来ない。

 

先進国の消費者はそういった暴力とは無自覚に、“安く・手軽で・お洒落な”服を求めつづけた。顔の見えない欲望が積もり積もった結果だろう。2013年4月24日8時45分にラナ・プラザビルが崩壊した。もう4年も前の事件だから私たちは「あぁ、あのビルが崩れた事件ね」と、忘却している。1000人以上が下敷きになって命を絶ったのにも関わらず。生活のためとはいえ、“安く・手軽で・お洒落な”服を購入した私たちにこそ罪があるのに。

 

誰かを想いながら衣装を作る彼女と、誰が着るかも分からない服を縫い続けているバングラデシュの女性たちは、服を作るという本質を通じて同じ人物だ。仕事中にビルが崩壊し生き埋めになるということは、彼女が死ぬことでもあると感じられた瞬間、途端に胸が痛くなった。

 

店頭に並ぶ"Made in Bangladesh"の服は、まっさらな顔をして、きれいに無個性に陳列されているだろう。しかしそれらは機械で作られたのではない。血の通った女性が明日を生きるために作った服なのだ。購入して1シーズンさえ着ることができれば捨てるのも惜しくないその服は、彼女たちの肉体的・精神的犠牲の上に成り立っている。