sonapakhi ショナパキ

映画の記録と、日々の記録です。

実家にて

2020年の年が明けた真夜中、新年新しいことをしたいと思い立ちNetflixに加入する。ドキュメンタリー映画を探してみようと思ったのに、気が付いたら『全裸監督』を血眼で全話見切ってしまい、物語に飲み込まれる恐ろしさを感じる。気が付けば早朝になっていた。年末年始、家族がそろっても紅白以外はバラバラにスマホの画面で物語を楽しむ光景を目にした。また一つこの世界でディストピアが加速したね!だなんて別にもう口に出してひねくれる年頃でもないので、1人で静かに絶望した。

翌日も仕事がおさまらなかったので、外に出てぼんやり近所を徘徊する以外の余裕がなかった。余裕がないと必然的にPC上で観賞できる映画が見たくなる。友人に面白い作品はないかと聞いたところ、即答で『パリ、夜は眠らない』(1990)を教えてもらう。本当に面白かった。1980年半ば、ニューヨークの街でドラァグのカルチャーの黄金期に夜通し行われる「ボール ball」というショーパーティーを舞台にしたドキュメンタリーだ。そのボールと呼ばれるショーパーティーで堂々となりたい姿で闊歩する彼/彼女らの姿が、神々しいのだ。私はなりたい生き物の姿を、この場で、胸を張ってなりきっているけど、何か?という覚悟がにじみ出ている。この映画を紹介してくれた友人も言っていたが、アイデンティティや自分らしさというのはもしかしたら、元から手の内に備わっているものではなく、血のにじむような努力や苦しみののちに手にするもなのだ、きっと。トランスジェンダーとして23年間の人生を生き抜いた、Venus Xtravaganzaの花のような凛とした佇まいを目に焼き付ける。

2019年1月4日10時半、帰京する前にどうしても訪れたかった福井メトロ劇場に向かう。京マチ子特集。溝口健二監督の『雨月物語』(1953)を見る。PCの画面で食い入るように見つめていた溝口健二の作品とスクリーンで出会いなおせる感動。半世紀以上前の映画なのに、激情を抱える女性の情念と完璧主義者ゆえの映像美にやっぱり脳天を突かれた思いがした。
福井メトロ劇場は福井鉄道の福井城址大名町駅前にあるミニシアターだ。昔は市役所前という駅名だったのに、気が付けば変わっていた。当時の私は通学路の途中に下車して映画をみることが出来たはずなのに、その時は何故だか素通りして映画館に立ち寄ることがなかった。本当にもったいない学生生活を送ってしまったなと思う。学校が嫌になったことなんて何回もあったのに、素晴らしいアジールのような空間が、あそこにあったことを私は何故だか気が付けなかった。ちょっと抜け出せば映画に浸ってから日常に戻ることが出来たのに。
だから自分が高校に通ってきた道を再び10年後に辿り、映画館がそこにあって、映画を見たこと、2008年の映画ノートに『わたしがクマに切れた理由』の感想が書き込まれていたこと、それは大学在学中にDVDを借りて見た作品だということ。自分と他人の中で流れる時間の経過が重なる感覚があって、それだけで訳が分からず涙が出るような嬉しさがあった。お客さんの感想がびっしりと書き込まれた映画ノートをゆっくり読んでたらそれだけでたぶん時間がたってしまうだろうから、ノートはまた今度来た時に読ませていただこうと思った。あの劇場で、どれだけ沢山の人が、映画と出会って心を震わせたのだろう。映画ノート、当時のものと思われる古い『雨月物語』のポスター、沢山の人がそこに座ってこれから始まる映画のワクワク、映画の余韻を味わったと思われるソファ。劇場に詰まっているであろう物語を想像して嬉しくなる。もしかしたら、学校を抜け出して映画館に来てボンヤリしている学生がいるかもしれない。よくわからないけど色々なことを想像していたら、昔の自分を今の自分が抱きしめている感覚になった。

福井駅前の勝木書店に立ち寄る。ここでよく参考書を探していた。昔と同じ匂いがする。本棚をじっくり眺めていると、地元出身の作家と、今話題になっている本が交互に並んでいて、とても素敵な空間だと思った。高校生のときは地元の本屋の本棚にこういう美しいセレクションの本が並んでいることにだって気が付けなかった。書店の方が強くお勧めしていた、フレディみかこ氏の『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』を買って、帰京する新幹線で立ち乗りしながら一気に読む。多様性の最先端にあるイギリスで子育てをする筆者のルポタージュには、日本で日本人として生きている私に生々しく刺さる言葉が沢山あって、まだ消化しきれていない。消化して、そこから学んだことを実践しなければならないと思った。

本を読み切ると東京についている。その日の夜、美味しいサバの味噌煮をいただく。