sonapakhi ショナパキ

映画の記録と、日々の記録です。

2020年、こちらのブログ復活しようと思いました。

2020年明けましておめでとうございます。たくさんの方にお世話になって、生き延びることができたと確信しています。まずは本当にありがとうございます、本当に。自発的捨て猫みたいになっていた私を半年間拾ってくれた友人に、まずはありがとうを伝えたい。彼女の実家で食べた500円くらいの新潟湾で獲れた小さな蟹がとても美味しかったことをいま思い出した。

2019年、いろんなことがあったように思います。たくさんの嬉しい出会いがありました。本職のプログラマーとして恵まれた現場で働けて、仕事の合間合間に上司と映画の話を山ほどしていた気がします。論理的に物事を考える癖がついてきたおかげか、日々のバランスもニュートラルになった気がします。

 

転職したり、引っ越ししたり、プライベートがごたっとしたり、

ゴールデンウィークダッカでお仕事する機会に恵まれたり、

ベンガル料理を広めるイベントを作ったり、

友人と小さなポッドキャストを始めたり、

大好きなヨガの先生が近くの教室からいなくなってヨガに足が向かなくなったり、

友人が働く能登に初めて訪れたり、

仕事の納期に追われた反動でジムに入会して走り出したり、

仕事帰りにレイトショーを見ることが難しいと、PCで食い入るように配信サイトの映画を見つめたり、

 

東京での暮らしを書き出してみたら、改めて自分の行動は多動だと認識します。そのどれもどれもが楽しい思い出なのですが。しかしこの働き始めた2018年から2019年の2年の間、私自身がいつ、どこで、何をして、どう感じたのか、それらがものすごく散漫な記憶として散らばっています。1年間会っていない人と久しぶりに会うだけで、その人の顔の変わらなさに驚いてしまうというように、自分の中で時系列がこの数年で散り散りになっているのです。結構ショックでした。しかもそれらのピースは微妙に履き違えていて、私が福井県出身を富山県出身と間違えられるとムカつくのに、誰かと誰かの記憶が入り混じって、同じことをつい最近北関東の方にしてしまいました。ごめんなさい。自分の記憶の曖昧さに驚きました。

2019年12月31日、私は帰省して実家のテレビをずっと流しっぱなしにしながら納まることを諦めた仕事をしていました。福井テレビ開局50周年記念につき「ポーランド孤児」のドキュメンタリー番組が流れていました。福井にある敦賀湾はその昔、ロシアと日本をつなぐ玄関口だったのです。そのドキュメンタリー番組には地上波初登場の、約30年前のポーランド孤児のインタビューが差し込まれており、それを私はしみじみ見つめていました。ポーランド語訛りで「もしもしかめよ、かめさんよ」と楽しそうに歌うおじいちゃんおばあちゃん。

わたしの地元も、おじいちゃんとおばあちゃんが沢山暮らしていて、朽ちている建物がそのままになっている光景がよく目につくような土地です。父と母でドライブしていたら、毎日通学していたはずのその場所に、瓦を作る煙突が残っていることに気がつきました。それはバングラデシュの郊外でよく目にしていたレンガ用の煙突と良く似ていた。

一方、超高速で流れる私の都会での暮らしの中で、ありとあらゆる記憶が薄らいで、ごちゃ混ぜになって、忘れ去られていくことに、驚きと恐怖を感じます。国家の陰謀が私たちを鬼のように働かせ、海馬を小さくしているのかもしていません。沢山考えたいことがあるのに、日々の多忙さがそれらを取りこぼしていく。しかしそういう状況下だからこそ、いつ、何があって、どう思ったか、そして何を思い出したのか、それらを書き起こし、編み直し、だれかに記憶を手渡していく努力を続けていくべきだと思いました。そのいち手段として、時系列で記録されていくブログというメディアに個人的な語りや記録を書き残しておくことにします。学生時代に書き散らかした記事は恥ずかしけれど残しておく。読めば自分が思い出す手立てになる。過去の自分グッジョブ。

2020年は2019年より流れが早いと思うし、自分がその流れについていかなければならないから、とにかく走って走りまくるけど、後から振り返ることができるようにしたい。忘却する人類への無謀な抵抗の手段として、映画を届けていこう。人類の抵抗のおかげで、私はポーランド孤児のことを今日知った。

 

追記)冒頭の捨て猫の話は、2018年の話であって、2019年の振り返りではない。自分史を編んでいるだけでも人間の物語的な語りの重力を感じる。