街を歩く、映画を観る、話す
その街にはその街の、顔がある。
下北沢トリウッドに映画を観にいった。早くに到着したから、街を散策する時間があった。
休みの日の下北沢は若い人と観光客でにぎわっていて、ガールズバーのお姉さんや強面のお兄さんが客引きをしていた。
映画館に向かう途中、商店街を下っていくと、ぽつぽつと古着屋が軒を連ねる。
下北沢の表層しかしらない私の印象は、こんなものだ。
別に買い物をする気はないけれど、きらきらした細かいアクセサリーのショップを眺めていた。
「お姉さんそのワンピースどこで買ったんですかー!?かわいいですね~」
「ああ、すみません、古着です」
なんだか竹を割ったように笑う接客をする方で、アパレルの人にしてはめずらしいなと思った。
「この後どこいくんですかー」
「あ、そこの映画館です」
映画を一人で観にいくときは、たいてい孤独だ。誰とも言葉を交わさない時だってある。
そんなものだと思っていたのだけれど、ここ最近、映画は誰かと観たり、観たあとに「おもしろかったね」とか「よかったね」とか、単純な言葉でもいいから何かを共有したいのだ。
そして「よかったね」と伝えて、その誰かがまた映画館に足を運んでくれれば、なおさら嬉しい。
誰かが「おもしろかった」という映画は、予告だけでもいいから観てみたい。
どうしたら一人でも多くの人に映画を観てもらえるのか。
色んな映画を観るたびに、そんなことを思っている。
ドキュメンタリーは面白いものなのに、どうしてドキュメンタリーというだけで鑑賞予定リストから除外されてしまう場合があるのか。
監督が舞台挨拶で、
「小さい映画なので、一人一人の声で広まっていくことがのぞましいです」
と、休日のナイトショーの終わりで語ってくれた。
小さな声を、目の前の相手一人一人に届け続けること。
ロビーで声をかけさせてもらった際、チラシを何枚かいただいた。
もう大分遅い時間帯だったけれど、上映前にウィンドウショッピングしていたお店がまだやっていた。
お姉さんがいたので、先ほどいただいたチラシを一枚渡して帰宅した。
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水本博之監督作品『きおく きろく いま』『いぬごやのぼうけん』を観賞。
映画にはうつらない、長崎県大村市の方々が楽しそうに絵を描く様子だとか、監督が目にしたであろう海の荒々しさを想像していました。
忠犬ハチ公的なエートスからは程遠かった”いぬ”や、いじわるそうな顔をする主人公など、現実や人間の可笑しさや哀しさに二ヤリとしたり。
アニメーションとドキュメンタリーの世界を行き来するからこそ生まれる、稀有な表現なのだと思いました。
https://www.facebook.com/kiokutoinugoya/
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服/バングラデシュ/労働
同居人は衣装作家だ。
フリーランスとして舞台の衣装を作っている。息を吸うように手を動かし、時々お茶を淹れて休憩を挟み、再び作業場へ戻る。私はいつもコタツに入りパソコンで作業。彼女は音楽が好きで口笛や鼻歌を交えながら手を動かし続けるのだ。
(人間目指している方向が違えば、これ程までに生活が異なるものかとしみじみしている。)
上京してから一心に服を作り続けてきた彼女の仕事、仕事部屋、仕事道具をこっそり尊敬の目で見つめていることをここで明らかにしておく。
私たちは5人くらいで一軒家に住んでいる。コタツのあるリビングで皆の時間が合えば、他愛もない話をして毎日を過ごす。美味しい食べ物の話だとか、兄弟は何人だとか、好きな人はどんな人なのかとか、仕事はどうだとか、色々。
そういう類の話をしていた時だったと思う。私が衣装作家の彼女に「バングラデシュの縫製工場で取材してみたいんだよね」と何気なく話を振った。すると彼女の眼光が鋭く光って、“ダッカ近郊ビル崩落事故”の写真の展示を見に行った話を教えてくれた。彼女はその写真を見て、涙が止まらなくなったと言い放つ。
私は正直、彼女がなぜそこまで心を動かされたのか分からなかった。でもその違和感が喉につっかえて、バングラデシュの縫製労働に関する記事を読み漁った。
ここでは断片的な情報を並べることしかできないが、女性行員たちは生活や家族の為に、月収三千円から四千円程度の給料で過酷な労働を強いられている。なんといっても外資企業がバングラデシュに工場を建設するメリットが、安価で豊富な労働力なのだから。男性の監督者から性的な暴言、暴力を受けた事例も存在する。バングラデシュの猛暑、機械から発される熱気の中、休憩もろくにとることは出来ない。
先進国の消費者はそういった暴力とは無自覚に、“安く・手軽で・お洒落な”服を求めつづけた。顔の見えない欲望が積もり積もった結果だろう。2013年4月24日8時45分にラナ・プラザビルが崩壊した。もう4年も前の事件だから私たちは「あぁ、あのビルが崩れた事件ね」と、忘却している。1000人以上が下敷きになって命を絶ったのにも関わらず。生活のためとはいえ、“安く・手軽で・お洒落な”服を購入した私たちにこそ罪があるのに。
誰かを想いながら衣装を作る彼女と、誰が着るかも分からない服を縫い続けているバングラデシュの女性たちは、服を作るという本質を通じて同じ人物だ。仕事中にビルが崩壊し生き埋めになるということは、彼女が死ぬことでもあると感じられた瞬間、途端に胸が痛くなった。
店頭に並ぶ"Made in Bangladesh"の服は、まっさらな顔をして、きれいに無個性に陳列されているだろう。しかしそれらは機械で作られたのではない。血の通った女性が明日を生きるために作った服なのだ。購入して1シーズンさえ着ることができれば捨てるのも惜しくないその服は、彼女たちの肉体的・精神的犠牲の上に成り立っている。
バングラデシュの友達と、ダリ展に行った。
半年ぶりにお互いのフィーリングと予定があって、先日、東京の大学の修士課程で研究しているバングラデシュ人の友達と会った。
共通の知人からバングラデシュの土産を預かってきていて、それを渡そうとしていたが、渡しそびれて半年以上経ってしまっていた。
はじめて会った時は去年の冬で、板橋にあるバングラデシュ料理屋さんに誘ったのだけれど、そのお店が店じまいしていたみたいで結局普通のインド料理を食べて気まずかった。
私も、彼女もどちらかというと話を聞くタイプだったし、当時のベンガル語は片言だったに違いないから、なんだかもう、まとめて、あぁごめん…不甲斐ない、という感じだった。
今回はリサーチを怠らず、錦糸町にある噂のバングラデシュ料理屋「アジアカレーハウス」に行った。
きっと地元の料理が食べられなくて寂しがっているハズ…!と思って選んだのだが、
彼女あまり食べることに執着がなさそうなタイプだった。
私は「おおお…!旅行中に食べたやつっぽい!」と思いながら、残す彼女にかまわず完食した。
食べ終わった後、
私「どこいこうね~浅草は行った~?」
彼女「行った~」
私「スカイツリーはみた~?」
彼女「ここから見えるね~」
私「アハハ」
という感じだったから、どこに行こうかな?と思っていたけれど、
ふとした拍子に彼女が美術館の話をしだして、
彼女「研究会でパリに行ったけど、休みの日にルーブル美術館で一日中鑑賞してた」
私「いいなあ!絵を見るのが好きなんだね」
彼女「うん。今、ダリ展やってるみたいだね」
私「え、行きたい。行こう!」
彼女「やったー!」
的なノリで、美術館に行くことにした。
美術館を一緒に見て回るというのは、あまり言葉を必要としないのだなと思った。
その日は人が多くて、はぐれないように気を付けながら、お互いにペースを合わせて鑑賞した。
一人で行けば、通り過ぎてしまうような絵のニュアンスも、人ごみの中、一枚一枚ゆっくりと観賞することで、細部まで楽しむことが出来た。
疲れたら一緒にベンチに座って、また立ち上がった。
鑑賞し終えると、「よかったね」という言葉だけ交わして、外に出る。
秋晴れですがすがしい天気の中、美術館の回りをちょっと散歩してから帰った。
言葉を多く交わさないでも、一緒に絵を見たという体験、そして一緒に過ごした時間というのは、こんなにも満ち足りたものだったのだと気が付けた。
「絵を見に行くときは『ションギ』(仲間)が欲しいよね」
という彼女の一言が頭に残っている。
また行けたらいいな。
マフラーにした「赤い手ぬぐい」の質感が分からない
かぐや姫の『神田川』を力技でベンガル語と英語に翻訳してみたお話。
ベンガル人に、日本語の歌を聞いてもらったらどんな反応するかな~というのが目的です。
好奇心と翻訳へのアマチュア的情熱から、日本語の特徴のあるポピュラーソングを翻訳している。
ベンガル人は芸術好きな人が多いからか知らないが、どんな訳でも見せれば褒めちぎってくれる。ありがとう。
翻訳しながら歌詞と向き合っていると、本当に次から次へと疑問が沸き上がる。
これ、いつの歌?なるほど、1973年か。
作詞された喜田条忠氏の話によると、学生闘争の時代なのだな。ふむふむ…
そして驚愕したのは、作詞家は男で、作詞家の心情を書いた歌であるらしいということ。
それまで鼻歌交じりで曲を聞いていた私は、完全に、あぁ彼氏が風呂から出てこなくて寒くてイライラしているんだなと思っていた。
今は風呂から出てくるのを待って、石鹸をカタカタ鳴らすことはもうないんだろうな。
暖房の利いた休憩所があるもの。
洗い髪もドライヤーすればいいもんな。
横丁って、具体的にイメージ出来ないなあ。
そして一番疑問に思ったのが、
70年代の赤い手ぬぐいって、どんな質感だったんだろうかってことです。
ぱさぱさしてたのか?赤ってどんな発色の赤なの?
マフラーとしての防寒機能はあったのか?
ついでにマフラーをどのように巻いていたのかも不鮮明である。
二人で巻いて暖を取っていた可能性もある。
しかしそのような場合、手ぬぐいの長さ的に無理があるか・・・
「赤いてぬぐい」という、70年代の母語のレアリアが分からない。
結論:卵は食べた方が良い、絶対的に
卵は完全食と言われる所以が分かった。
卵を1日2〜3個食べ始めてから、体の調子が良くなった気がするし、肌ツヤも整ってきた。
お母さんの時代は恐らく、栄養学では卵=コレステロールと教えられたのかな。なので私はお母さんの言ったことが歪曲されて頭の中にあって、卵は食べても1個、と思っていた。
しかも卵料理をするには適さないフライパンのお陰で、卵は使い勝手の悪いすぐ駄目にしてしまう食べ物に認定していた。
しかし、色々な本やネットの情報から考えるに、卵は身体に良いらしい。
(今は眠いから情報源に当たることは省かせてもらう。)
卵自体も、幼少期の苦手意識が無くなって、美味しいと思える。
大学一年生か二年生の時に卵かけごはんに当たったことも遠い記憶となり、もはや卵かけごはんに一種のエクスタシーを感じる程だ。
炊きたてのご飯に卵かけごはん。。。(寝る前に米を炊くのを予約せねば)
卵は凄い。
今のところ、食物連鎖の頂点にいる利己的な人間が大量生産しているだけあって凄い。
わたしは、今この文章を打ちながら、ポムの樹のオムライスが食べたいと思う。
生きるための自炊術
諸事情から、アルバイトで稼いだお金には手を付けないような節約生活を今年は送っている。大学生活が始まった当初は苦労して稼いだアルバイトのお金を使わずして何になるという精神論で、口座に振り込まれるお金は靴やカメラや鞄や旅費に消えていった。それはそれで楽しかった。
しかし私には貯金しなければならない大目標みたいなものができて、それまでの生活を改めた。にしても貯まっていくお金というのは学生の身分であるからごく僅かであり、通帳の残高は牛歩のレベルでしか増えていかないのだが。
貯金をする方法は、大まかに3通りに分かれるだろう。1つは、当たり前だが収入を増やす。しかし大学生活という時間は自分なりに大切にしたいから却下。短時間で高収入は精神がやられそうだから却下。
2つ目は、お金自体を増やす。これは直感的に怖いし、お金を増やす知識を身に付けなければならないから却下。
残る選択肢が、「限られた収入の中で、支出を抑えて貯蓄に回す」である。私はこの当たり前の方法を採択することにした。まずは支出を見直す。飲み代などの「交際費」を削ってしまうとさすがに生きている意味が分からなくなってしまう。映画くらいは見に行く「娯楽費」は、精神的な活力として必要となってくる。化粧水やシャンプー代、予防医療としての医者代は避けられない。
すると一番削ることが出来そうなのは、当たり前だが自分の肉体を維持するための「食費」である。この食費を、いかに戦略的に、効率的に、最低限の努力で最大限の利益を上げるかが私の課題であった。且つ、必要な栄養素を摂取しなければ私の脆い身体はすぐに悲鳴を上げてしまうのは分かっている。
大目標のためには机に向かう必要があったので、必然的に気力が机の上に注がれる。加えてアルバイトの後でも自炊をしなければならない時がある。台所に向かう時には、搾りかすのような肉体で料理をしなければならない。自分のためだけにする料理というのは、端的にいって「だるい」。しかし何か食べなければ肉体に負担が回る。考えられる症状として、アトピー性皮膚炎の悪化、流行り風邪やインフルエンザへの感染等が思い浮かぶ。そしたら実家へ強制送還だ。働きだしたら体調管理も仕事の一つになるだろう。
生存を巡る小さな闘いの中で、私は「楽で」、「それなりに美味しくて」、「栄養も摂れる」自炊術を身に付けた。
これから飽きるまで、その自炊レシピを公開していきたい。多分、誰かのためになるような気がする。テキトーに、それなりに美味しいものを作ろうよ。
白いシャロワル・カミズを着た彼女
今年の2月の後半、バングラデシュを旅行した。一切旅の日記みたいなものをつけていなかった訳だが、なぜかふと、出会った一人の女性のについて書きたくなった。
旅行中の大概の時間は、最高学府といわれるダッカ大学の広大な敷地の中にいたので、バングラデシュを見て回ったと胸を張れない。かつ出会った人も、バングラデシュの恵まれた階層の人ばかりだから、旅行の体験は極めて偏ったものである。しかし旅行というのは、誰にとっても私的な体験だ。これは一つの私的な話である。
旅行の終盤で、知り合いの教授の授業に招かれることになった。授業前、教授の女子学生たちが6~7人くらいで私を囲んでくれて、日本でベンガル語を学んでいるということで熱烈に私を歓迎して、嬉しい質問の矢を浴びせてくれた。
そのうちの一人が、白いシャロワル・カミズを着た彼女だった。小さな身体の彼女は、授業が始まる前、私がご飯を食べていないのを心配し食堂に連れていってくれた。彼女は、感情が表に出るような性格ではなく、物静かで聡明な、文学少女という感じだった。旅の出会いでありがちな、矢継ぎ早に何かを聞いてくる感じでもない。いつまでいるの?と聞かれ、もうすぐ帰ると答えると、それは残念、もうしばらくいるのなら、コックス・バザールの海に連れていってあげるのにと言って、彼女と海の写真を沢山見せてくれた。海が相当好きなのだろうか。どうして海が好きなの?という質問はなぜだかその時思い浮かばなかった。
食後、教室に向かう途中、詩は好き?と率直に聞かれた。私は他の学生とはちがう彼女の雰囲気にちょっとどきどきしていたからか、曖昧にはにかんで、好きだよと答えることしかできなかった。あらそう、と彼女も曖昧に微笑んでくれた。詩の話はそこで終わってしまった。
授業中も彼女は隣に座ってくれた。教授に無茶ぶりされたスピーチもなんとか終えて、いざ授業が始まると、彼女はすべての集中力を耳とノートに注ぎ、私を気にすることは一切なかった。そのノートの文字があまりにも綺麗だったので、私の意識は彼女のペン先から生まれるベンガル文字に傾いていた。授業中、彼女に質問して教授の文学講義を補足してもらおうなんて真似は怖くて出来なかった。
教授の授業が終わると、先ほどまでの歓迎ムードとはうってかわって皆次の授業のことで頭が一杯という感じであった。さよなら!と、教授の生徒さんたちと潔く別れた。別れ際に、日本語を学んでいる女子学生から、授業中に書いたと思われる手紙をもらった。
「あなたが大好きです。あなたは綺麗です。○○より」
授業中に一生懸命書いてくれていたのかと思うと、微笑ましかった。
授業後、教授から白い服の彼女の話を聞いた。彼女は、学科の首席であり、かつ詩人であったのだ。授業に対する集中力も、詩は好き?の質問の意味も、後からようやく理解できたのであった。
後日フェイスブックで詩を読みたいとメッセージを送るも、時間がなくて本をもらうことは出来なかった。
あのとき彼女の詩を読めなかったことは、今でも何となく心に引っかかっている。帰国後、卒論のテーマも少し変わって、タゴールの歌を四十程翻訳することになった。六月には詩を朗読する。次は胸を張って詩が好きだ、あなたの詩を読ませてほしいと言える自分で彼女と話がしたい。