sonapakhi ショナパキ

映画の記録と、日々の記録です。

奥さん

 人間は、脆い。一人では生きていけない。他者の存在がなければ、生命を持続させることすらも出来ない。そして誰にでも死が訪れるように、皆が有限の存在である。

 私は有限の命を燃やしながら、限りなく誰かを好きになりながら生きていく。誰かとは生きているとも限らないし、目の前にいるとも限らない。詩を残したあの人かもしれないし、海を渡ったあの人かもしれない。時には好きになる相手は、自分とは違う性の持ち主ではないかもしれない。正直、異性を好きになるのと、同性を好きになることの差が、最近あまり良く分からないことがある。好きな人のことは誰でも、もっと沢山知りたいし、何かを共有したいし、ぎゅっとだってしたくなるし、帰りたくなくなる。目を見るのも少しだけ恥ずかしい。何故なら、好きになった人の目は輝いている気がするから。目が澄んでいて、その目で今私だけを見つめていると思うと、嬉しくなる。私はあの人の時間を、確かに頂いて共有したのだ。

 誰だってそうだが、好きな人にしか見せない私的な人格がある。私はしばしば、私と事務的な繋がりしかない人の私的な人間像を、想像してしまう癖がある。奥さんはどんな人なのだろうか、可愛いのか、綺麗系なのか、どんなセックスをするのか、公的な空間のピリッとした顔がどんな風に崩れるのか。相手の私的な人格は、彼氏とか彼女とか奥さんとか旦那さんとか不倫関係とか、なんだか良く分からないけれど特別な関係にならないと、見られないようになっている。その関係性に、名前がつくときもあれば、まだ名前がつけられていない場合だってある。しかしだからこそ、使い倒された奥さんとか旦那さんとか妻とかいう言葉はとてつもないエロスを身にまとっている気がする。特に「おくさん」って言葉は、それはもう「おくさん」ではない私からしたらとてつもなくエロい。だって、あなたが生きるおくに、「おくさん」は存在しているんだよ。何をどう頑張ったって、私があなたのおくにいることは出来ない。数時間・数分・数秒を独占したとしても、残りの何万時間をその肩書きでゆるやかに独占することは出来ない。素敵な男性が「おくさん」とか「彼女」という言葉を言い放ったときの、軽い絶望感とその後にやってくるふしだらな好奇心。なんていうかな、好きな芸能人に恋人がいると知った時みたいな感じなのか。違うか。

いつも隙がなくて何一つ欠点が見当たらないようなあの子の、だらしなくてワガママで泣き虫な人格を引き受けられる彼は、多分世界で一番の秘密を知っている人だと思う。そんな彼女のほどけた顔を写真におさめて携帯に保存するなんていう行為、ちょっとサディスティックだ。なんという幸せ者だ。幸せ過ぎて、それ以上何を望むものがあるの?世界を敵に回しているよ、君は。

 でも私も、世界の敵とは言えないけれど、同じように、世界で一番の秘密を知っている。そして「彼女」だとかいう関係性にゆるく縛られながら、幸せな不自由を生きていく。本当に、人間は脆い。ああめんどくさい大学、バイトめんどくさい、朝起きたくない、彼氏がしつこい、奥さんが機嫌悪い、会社行きたくない、実家かえるのめんどくさいと言いながら、そのめんどくさいがある日奪われて、全部無くなってしまったとき、自分が何者であるかよくわからなくなってしまうのだから。もっと人間がそのめんどくさいを感じないで、関係に感謝しながら生き続けられるようにプログラミングされていれば良いのに。SF小説であるのかしら、そういう世界が。