sonapakhi ショナパキ

映画の記録と、日々の記録です。

バングラデシュの友達と、ダリ展に行った。

半年ぶりにお互いのフィーリングと予定があって、先日、東京の大学の修士課程で研究しているバングラデシュ人の友達と会った。

共通の知人からバングラデシュの土産を預かってきていて、それを渡そうとしていたが、渡しそびれて半年以上経ってしまっていた。

 

はじめて会った時は去年の冬で、板橋にあるバングラデシュ料理屋さんに誘ったのだけれど、そのお店が店じまいしていたみたいで結局普通のインド料理を食べて気まずかった。

私も、彼女もどちらかというと話を聞くタイプだったし、当時のベンガル語は片言だったに違いないから、なんだかもう、まとめて、あぁごめん…不甲斐ない、という感じだった。

 

今回はリサーチを怠らず、錦糸町にある噂のバングラデシュ料理屋「アジアカレーハウス」に行った。

きっと地元の料理が食べられなくて寂しがっているハズ…!と思って選んだのだが、

彼女あまり食べることに執着がなさそうなタイプだった。

私は「おおお…!旅行中に食べたやつっぽい!」と思いながら、残す彼女にかまわず完食した。

 

食べ終わった後、

私「どこいこうね~浅草は行った~?」

彼女「行った~」

私「スカイツリーはみた~?」

彼女「ここから見えるね~」

私「アハハ」

 

という感じだったから、どこに行こうかな?と思っていたけれど、

ふとした拍子に彼女が美術館の話をしだして、

 

彼女「研究会でパリに行ったけど、休みの日にルーブル美術館で一日中鑑賞してた」

私「いいなあ!絵を見るのが好きなんだね」

彼女「うん。今、ダリ展やってるみたいだね」

私「え、行きたい。行こう!」

彼女「やったー!」

的なノリで、美術館に行くことにした。

 

美術館を一緒に見て回るというのは、あまり言葉を必要としないのだなと思った。

その日は人が多くて、はぐれないように気を付けながら、お互いにペースを合わせて鑑賞した。

一人で行けば、通り過ぎてしまうような絵のニュアンスも、人ごみの中、一枚一枚ゆっくりと観賞することで、細部まで楽しむことが出来た。

疲れたら一緒にベンチに座って、また立ち上がった。

鑑賞し終えると、「よかったね」という言葉だけ交わして、外に出る。

秋晴れですがすがしい天気の中、美術館の回りをちょっと散歩してから帰った。

 

言葉を多く交わさないでも、一緒に絵を見たという体験、そして一緒に過ごした時間というのは、こんなにも満ち足りたものだったのだと気が付けた。

 

 

「絵を見に行くときは『ションギ』(仲間)が欲しいよね」

という彼女の一言が頭に残っている。

また行けたらいいな。

マフラーにした「赤い手ぬぐい」の質感が分からない

かぐや姫の『神田川』を力技でベンガル語と英語に翻訳してみたお話。

 

ベンガル人に、日本語の歌を聞いてもらったらどんな反応するかな~というのが目的です。

好奇心と翻訳へのアマチュア的情熱から、日本語の特徴のあるポピュラーソングを翻訳している。

ベンガル人は芸術好きな人が多いからか知らないが、どんな訳でも見せれば褒めちぎってくれる。ありがとう。

 

翻訳しながら歌詞と向き合っていると、本当に次から次へと疑問が沸き上がる。

これ、いつの歌?なるほど、1973年か。

作詞された喜田条忠氏の話によると、学生闘争の時代なのだな。ふむふむ…

そして驚愕したのは、作詞家は男で、作詞家の心情を書いた歌であるらしいということ。

それまで鼻歌交じりで曲を聞いていた私は、完全に、あぁ彼氏が風呂から出てこなくて寒くてイライラしているんだなと思っていた。

 

今は風呂から出てくるのを待って、石鹸をカタカタ鳴らすことはもうないんだろうな。

暖房の利いた休憩所があるもの。

洗い髪もドライヤーすればいいもんな。

横丁って、具体的にイメージ出来ないなあ。

 

そして一番疑問に思ったのが、

70年代の赤い手ぬぐいって、どんな質感だったんだろうかってことです。

ぱさぱさしてたのか?赤ってどんな発色の赤なの?

マフラーとしての防寒機能はあったのか?

ついでにマフラーをどのように巻いていたのかも不鮮明である。

二人で巻いて暖を取っていた可能性もある。

しかしそのような場合、手ぬぐいの長さ的に無理があるか・・・

 

「赤いてぬぐい」という、70年代の母語のレアリアが分からない。

結論:卵は食べた方が良い、絶対的に

卵は完全食と言われる所以が分かった。

 

卵を1日2〜3個食べ始めてから、体の調子が良くなった気がするし、肌ツヤも整ってきた。

 

お母さんの時代は恐らく、栄養学では卵=コレステロールと教えられたのかな。なので私はお母さんの言ったことが歪曲されて頭の中にあって、卵は食べても1個、と思っていた。

しかも卵料理をするには適さないフライパンのお陰で、卵は使い勝手の悪いすぐ駄目にしてしまう食べ物に認定していた。

 

しかし、色々な本やネットの情報から考えるに、卵は身体に良いらしい。

(今は眠いから情報源に当たることは省かせてもらう。)

卵自体も、幼少期の苦手意識が無くなって、美味しいと思える。

大学一年生か二年生の時に卵かけごはんに当たったことも遠い記憶となり、もはや卵かけごはんに一種のエクスタシーを感じる程だ。

炊きたてのご飯に卵かけごはん。。。(寝る前に米を炊くのを予約せねば)

 

卵は凄い。

今のところ、食物連鎖の頂点にいる利己的な人間が大量生産しているだけあって凄い。

わたしは、今この文章を打ちながら、ポムの樹のオムライスが食べたいと思う。

生きるための自炊術

 諸事情から、アルバイトで稼いだお金には手を付けないような節約生活を今年は送っている。大学生活が始まった当初は苦労して稼いだアルバイトのお金を使わずして何になるという精神論で、口座に振り込まれるお金は靴やカメラや鞄や旅費に消えていった。それはそれで楽しかった。

 しかし私には貯金しなければならない大目標みたいなものができて、それまでの生活を改めた。にしても貯まっていくお金というのは学生の身分であるからごく僅かであり、通帳の残高は牛歩のレベルでしか増えていかないのだが。

 貯金をする方法は、大まかに3通りに分かれるだろう。1つは、当たり前だが収入を増やす。しかし大学生活という時間は自分なりに大切にしたいから却下。短時間で高収入は精神がやられそうだから却下。

 2つ目は、お金自体を増やす。これは直感的に怖いし、お金を増やす知識を身に付けなければならないから却下。

 残る選択肢が、「限られた収入の中で、支出を抑えて貯蓄に回す」である。私はこの当たり前の方法を採択することにした。まずは支出を見直す。飲み代などの「交際費」を削ってしまうとさすがに生きている意味が分からなくなってしまう。映画くらいは見に行く「娯楽費」は、精神的な活力として必要となってくる。化粧水やシャンプー代、予防医療としての医者代は避けられない。

 すると一番削ることが出来そうなのは、当たり前だが自分の肉体を維持するための「食費」である。この食費を、いかに戦略的に、効率的に、最低限の努力で最大限の利益を上げるかが私の課題であった。且つ、必要な栄養素を摂取しなければ私の脆い身体はすぐに悲鳴を上げてしまうのは分かっている。

 大目標のためには机に向かう必要があったので、必然的に気力が机の上に注がれる。加えてアルバイトの後でも自炊をしなければならない時がある。台所に向かう時には、搾りかすのような肉体で料理をしなければならない。自分のためだけにする料理というのは、端的にいって「だるい」。しかし何か食べなければ肉体に負担が回る。考えられる症状として、アトピー性皮膚炎の悪化、流行り風邪やインフルエンザへの感染等が思い浮かぶ。そしたら実家へ強制送還だ。働きだしたら体調管理も仕事の一つになるだろう。

 生存を巡る小さな闘いの中で、私は「楽で」、「それなりに美味しくて」、「栄養も摂れる」自炊術を身に付けた。

 これから飽きるまで、その自炊レシピを公開していきたい。多分、誰かのためになるような気がする。テキトーに、それなりに美味しいものを作ろうよ。

白いシャロワル・カミズを着た彼女

 今年の2月の後半、バングラデシュを旅行した。一切旅の日記みたいなものをつけていなかった訳だが、なぜかふと、出会った一人の女性のについて書きたくなった。

 旅行中の大概の時間は、最高学府といわれるダッカ大学の広大な敷地の中にいたので、バングラデシュを見て回ったと胸を張れない。かつ出会った人も、バングラデシュの恵まれた階層の人ばかりだから、旅行の体験は極めて偏ったものである。しかし旅行というのは、誰にとっても私的な体験だ。これは一つの私的な話である。

 旅行の終盤で、知り合いの教授の授業に招かれることになった。授業前、教授の女子学生たちが6~7人くらいで私を囲んでくれて、日本でベンガル語を学んでいるということで熱烈に私を歓迎して、嬉しい質問の矢を浴びせてくれた。
 そのうちの一人が、白いシャロワル・カミズを着た彼女だった。小さな身体の彼女は、授業が始まる前、私がご飯を食べていないのを心配し食堂に連れていってくれた。彼女は、感情が表に出るような性格ではなく、物静かで聡明な、文学少女という感じだった。旅の出会いでありがちな、矢継ぎ早に何かを聞いてくる感じでもない。いつまでいるの?と聞かれ、もうすぐ帰ると答えると、それは残念、もうしばらくいるのなら、コックス・バザールの海に連れていってあげるのにと言って、彼女と海の写真を沢山見せてくれた。海が相当好きなのだろうか。どうして海が好きなの?という質問はなぜだかその時思い浮かばなかった。

 食後、教室に向かう途中、詩は好き?と率直に聞かれた。私は他の学生とはちがう彼女の雰囲気にちょっとどきどきしていたからか、曖昧にはにかんで、好きだよと答えることしかできなかった。あらそう、と彼女も曖昧に微笑んでくれた。詩の話はそこで終わってしまった。
 授業中も彼女は隣に座ってくれた。教授に無茶ぶりされたスピーチもなんとか終えて、いざ授業が始まると、彼女はすべての集中力を耳とノートに注ぎ、私を気にすることは一切なかった。そのノートの文字があまりにも綺麗だったので、私の意識は彼女のペン先から生まれるベンガル文字に傾いていた。授業中、彼女に質問して教授の文学講義を補足してもらおうなんて真似は怖くて出来なかった。
 
 教授の授業が終わると、先ほどまでの歓迎ムードとはうってかわって皆次の授業のことで頭が一杯という感じであった。さよなら!と、教授の生徒さんたちと潔く別れた。別れ際に、日本語を学んでいる女子学生から、授業中に書いたと思われる手紙をもらった。

「あなたが大好きです。あなたは綺麗です。○○より」
 授業中に一生懸命書いてくれていたのかと思うと、微笑ましかった。

 授業後、教授から白い服の彼女の話を聞いた。彼女は、学科の首席であり、かつ詩人であったのだ。授業に対する集中力も、詩は好き?の質問の意味も、後からようやく理解できたのであった。

 後日フェイスブックで詩を読みたいとメッセージを送るも、時間がなくて本をもらうことは出来なかった。

 あのとき彼女の詩を読めなかったことは、今でも何となく心に引っかかっている。帰国後、卒論のテーマも少し変わって、タゴールの歌を四十程翻訳することになった。六月には詩を朗読する。次は胸を張って詩が好きだ、あなたの詩を読ませてほしいと言える自分で彼女と話がしたい。

奥さん

 人間は、脆い。一人では生きていけない。他者の存在がなければ、生命を持続させることすらも出来ない。そして誰にでも死が訪れるように、皆が有限の存在である。

 私は有限の命を燃やしながら、限りなく誰かを好きになりながら生きていく。誰かとは生きているとも限らないし、目の前にいるとも限らない。詩を残したあの人かもしれないし、海を渡ったあの人かもしれない。時には好きになる相手は、自分とは違う性の持ち主ではないかもしれない。正直、異性を好きになるのと、同性を好きになることの差が、最近あまり良く分からないことがある。好きな人のことは誰でも、もっと沢山知りたいし、何かを共有したいし、ぎゅっとだってしたくなるし、帰りたくなくなる。目を見るのも少しだけ恥ずかしい。何故なら、好きになった人の目は輝いている気がするから。目が澄んでいて、その目で今私だけを見つめていると思うと、嬉しくなる。私はあの人の時間を、確かに頂いて共有したのだ。

 誰だってそうだが、好きな人にしか見せない私的な人格がある。私はしばしば、私と事務的な繋がりしかない人の私的な人間像を、想像してしまう癖がある。奥さんはどんな人なのだろうか、可愛いのか、綺麗系なのか、どんなセックスをするのか、公的な空間のピリッとした顔がどんな風に崩れるのか。相手の私的な人格は、彼氏とか彼女とか奥さんとか旦那さんとか不倫関係とか、なんだか良く分からないけれど特別な関係にならないと、見られないようになっている。その関係性に、名前がつくときもあれば、まだ名前がつけられていない場合だってある。しかしだからこそ、使い倒された奥さんとか旦那さんとか妻とかいう言葉はとてつもないエロスを身にまとっている気がする。特に「おくさん」って言葉は、それはもう「おくさん」ではない私からしたらとてつもなくエロい。だって、あなたが生きるおくに、「おくさん」は存在しているんだよ。何をどう頑張ったって、私があなたのおくにいることは出来ない。数時間・数分・数秒を独占したとしても、残りの何万時間をその肩書きでゆるやかに独占することは出来ない。素敵な男性が「おくさん」とか「彼女」という言葉を言い放ったときの、軽い絶望感とその後にやってくるふしだらな好奇心。なんていうかな、好きな芸能人に恋人がいると知った時みたいな感じなのか。違うか。

いつも隙がなくて何一つ欠点が見当たらないようなあの子の、だらしなくてワガママで泣き虫な人格を引き受けられる彼は、多分世界で一番の秘密を知っている人だと思う。そんな彼女のほどけた顔を写真におさめて携帯に保存するなんていう行為、ちょっとサディスティックだ。なんという幸せ者だ。幸せ過ぎて、それ以上何を望むものがあるの?世界を敵に回しているよ、君は。

 でも私も、世界の敵とは言えないけれど、同じように、世界で一番の秘密を知っている。そして「彼女」だとかいう関係性にゆるく縛られながら、幸せな不自由を生きていく。本当に、人間は脆い。ああめんどくさい大学、バイトめんどくさい、朝起きたくない、彼氏がしつこい、奥さんが機嫌悪い、会社行きたくない、実家かえるのめんどくさいと言いながら、そのめんどくさいがある日奪われて、全部無くなってしまったとき、自分が何者であるかよくわからなくなってしまうのだから。もっと人間がそのめんどくさいを感じないで、関係に感謝しながら生き続けられるようにプログラミングされていれば良いのに。SF小説であるのかしら、そういう世界が。

生まれた町のこと

 

 18年育った町を離れて4年経つ。小さい頃はあれほど大きく思えたショッピングモールは少し色あせてしまい、更地が目立つようになった。公園は人手がつかないのか、枯れた草が生えっぱなしになっている。
 小学生の頃は体が小さいからか、私の町のことを、ものすごく大きく、不思議にあふれているところだと思っていた。夜は一人で出歩くのが怖かった。誰かがどこかで飛び込み自殺したと言われている線路が家の裏の近くにあり、真っ暗な神社があり、雪で音が吸収される夜があった。家の中に泥棒が忍び込んでくるのが怖くて、施錠を確認した夜があった。トイレにお化けがいるかもしれないと思ったこともある。

 しかし今では夜はただの夜になった。丑三つ時まで起きていても平気だ。昔、徒歩で行けなかった距離もやすやすと歩けるようになった。この町をつつむ神秘のヴェールが、年を重ね、町を離れることで、はがれてしまったように思える。

 私はこの町のことを愛している。それは断言できる。私を育ててくれた家族が夢を託して作り上げた家がある。幼なじみたちと遊びほうけた公園がある。おじいちゃんと一緒に買い物に出かけた、ショッピングセンターの残像がある。それは、あまりにも幸福で甘美で完成された美しい思い出である。私の家には姉の小さい頃からはじまる写真が飾ってあるが、帰省する度私はぼおっと眺め、戻らない家族の幸福な思い出に少しだけ浸ってしまう。まだ元気だったおじいちゃんとおばあちゃんが、孫の小さな姉を海水浴に連れていく写真。私はまだ生まれていなかったから、水島というその美しい海を頭の中で想像するしかなかった。そして想像は飛躍し、私を冬の日本海の思い出へと誘うのである。海の崖にひっそりと力強く生える美しい水仙たち。父と母と、冬になるとドライブをして水仙を摘みに行った。私が小さかった頃の話である。もう何年も行っていないが、今でも時々ふと、あの海を見に行きたいと思うのである。しかし私は山を越え海沿いを運転する自信はない。つい車を運転してあげると言われると、子供時代に帰れるような気がして、心がゆるんでしまう。あの時目にした水仙畑を、海の荒ぶる輝きを、もう一度でいいから見にいきたいのである。若かった母と、白髪の少ない父と、車に乗ってもう一度、思い出を作りにいきたいのである。なぜなら私がこの町に戻ってきて、この町に住み、子供を作り、その子供と夫と、そして母や父を交えもう一度、海水浴に出掛け、バーベキュー、花火をするなんてこと、絶対できそうにもないからだ。いや、やろうとおもえば出来るかもしれない。が、曲がりなりにも自分のために仕事をやりたいと思ってしまった以上、命を産み育てることとは遠ざかってしまう。命が産まれたとしても、母や父が元気でいてくれる保証はない。このままだと私の育った家はいつかだれも住まなくなって、父も母も死ぬ。私の周りの家族たちは、ちゃんと子供の誰かが家に戻ってきて、子を作り、家を継ぐところが多い。数年前は煩わしいことだとは思っていたが、家や土地を守ってくれる人がいるからこそ、浮き草のように漂って生きるような勇気を培えたのだと思う。その基盤を、自分の手で守ることができず、家族の思い出が少しずつ古びていくのを横目に、離れた土地で忘却と忙殺の力を借りながら生きるのは、快いものではない。自分の選択に後悔することが必ずあると思う。けれど、どう生きればいいか、やはりわからない。

 18年同じところで生まれて過ごした影響というのは、思いの外強く、私のなかの奥深いところに居座って、ときどきひょっこり顔を出す。見えないけれども深い愛情に包んでくれたた家族とこの町のおかげで、私は倒れても再び起きあがり、歩きだし、考えることが出来る。そして注がれた愛を、私のなかにとどめておくのではなく、また誰かに譲り渡したい。それは、ささやかな形ではあれ、それが誰かの悲しみの解熱剤となり、力になれれば良いとおもう。そんな作品を作りたい。
 加速する時の流れを感じはじめた今、その流れの中にしっかりとブイ浮かべながら生きていきたい。クリバーでもないし、我ながら泥臭いし、お金持ちにはなれそうもないが、それでもいいと思う。